やさいをつくって腹落ちしたことがある

仕事で農家さんを取材しながら、ときどき雑談でウチのちいさな家庭菜園のことを相談したりする。
プロに向かって素人の趣味の相談が許される立場に感謝しつつ、真面目に教えてくれる農家さんたちの懐の深さを実感するときだ。

で、だいたいその雑談の終わりは、プロ側から「家庭菜園、いいよね」という言葉で締まる。自然栽培や無農薬栽培の農家さんたちだからこそ、家庭菜園をしてる意味を褒めてくれる。ありがたいよね。

前に一度「家庭菜園がほんま最強やわ〜」と自虐的に笑って言ってくれた農家さんがいた。いやいやいやこんだけの自然栽培にコミットしてるあなたこそ最強です、と答えたけど、彼の真意の深さはわかる。
 
うん、ひかえめにいっても家庭菜園はやっぱり良い。

私も今より若い頃は、人はどうしてある一定以上の年齢になると野菜をつくりはじめるのかが不思議だった。
それもわりと世界中でその傾向があるので、人種を問わないところが本質なのか、と思ったりしてた。

結局そう言いながら私も20代の終わり頃からプランター栽培を始めるわけなんだけど、自分で続けてきてわかったことは、野菜の成長過程で何を見るかってことだった。

野菜はしゃべらないけど、でも確固たる意志をもって育つ。

それは、生きようとすること。
生きて次の世代(種子)をつくろうとすること。

そう、野菜は生き続けるために育つ、それだけだった。

でも野菜のひたむきな意志と成長を観察してると、人も自然の一部だったことを思い出す。

わたしたちも本能によって、生存目的の栄養分を求めるし、しみじみと味わえる味覚もそのためにある。

そんなことは明文化する必要もなくて、その気づきや境地にいるとただ心地良いから、だから多くの人は野菜を育てるんだと思う。
少なくても私はそう。

だから家庭菜園は、自分や身近な人の生命がこれからも続いてほしいという意志表明だ。

若干大げさなようだけど、でも私の中ではそんな概念に行き着いた。

そう気づいたら、もう種まきひとつがエンタメで、フェスみたいな高揚感で、あぁ 生きるとは素晴らしい、なんて思いが、文字通り足元からこみ上げてくる。

収穫して食べる満足感は喜びの極みとなり、ネイルに土が入ることなんて一切気にならなくなった。むしろ長いネイルをやめた。

そして季節を一周、二周しながら慣れてくると、初めの頃の興奮は収まり、もっとじんわりと感じる喜びに変わる。決して慣れてきたり惰性ではなくて、言うなれば滋味深く感謝できるようになる感じ。

10年近く経ったらプランター3個の家庭菜園から、5m幅の畝が10畝ちょっと取れる畑になり、たくさんの野菜という命のリレーに伴走したことで私自身どれほどの考察をもらっただろう。

慌ただしい資本主義社会に生きる今、私の「本質を見る目」は情けないほどあっという間にすぐ曇るんだけど、それを戻してくれるのが自然の力であり、家庭菜園が気づかせてくれることだと思う。

大げさに聞こえたらそれまでなんだけど、でも私はそう感じてる。

この喜びをこうしてシェアできることもまた、家庭菜園がくれた喜びなんだよね。

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