遠回りしている間に少しだけ、誰かを応援する「強さ」を得た話。

あんばい 【塩梅】 
《名》料理の味加減。(一般に、物事の)ぐあい。ほどあい。

この10年くらい、生活の中に自然のものを取り入れる努力を続けてきて、ときにキャパオーバーすることが多々あった。己の身の程知らずでもあったし、そのせいで泣いてることも多かったと思うんだけど、ここ2〜3年は「どのくらいがちょうどいいのか」という自分のサイズ感がわかってきた気がする。

本当に必要なのか。
ちゃんと扱えるのか。

自分のスペックと、掛けられる時間やリソースのバランス。

それは時にプラスチックフリーだったり
オーガニックな食だったり
ダイバーシティーやソーシャルなことなど
その時々で色々なことに関して、自分にちょうどいい頃合い、つまり塩梅(あんばい)がわかってきた実感。

たとえばこの写真、乾燥させたビワの木の葉っぱ。これをみると毎回実感するのだ。

“ガンが治る”と豪語するレジェンドもいるほど薬効効果のあるビワの葉を、私もほんの一時期、びわ葉エキスや湿布といった知識を身につけるために努めていたことがある。

しかし本当にありがたいことに、大した疾患も持ってなければ大きな病気や怪我もない我が家にとって、たくさんビワ葉エキス作っても使い切れないし、お手当てが必要な機会もほとんどない。

というわけで何年か前から、ただ日に干して乾燥させてこうして保管してるだけになった。それがこの写真だ。

これを真冬の寒いときなどにお風呂に入れて入浴剤にする。ビワ葉茶に身を浸すようなものだけど、無臭で透明なのがウチに合っている。
それもビワの葉が手に入る分だけで良いと思っているので、遠くから取り寄せたりしないし、この先も続けるかどうかも分からない。

でも自分にちょうど良い使い方が見つけられたという安心感があり、それは生活者としての自信に少しだけ変わった。

遠回りしたと言われたらその通りかもしれないんだけど、でも遠回りしながらいろんな人に出会えて、知見が広がり、結果自分の自信が少しだけついたならそれで良いではないか、と心から思っている。

こんなことをツラツラ書くには理由があって、最近いろんなところで悲しくなるコメントを読むことが続いたからだ。

誰かが新たに、これを始める!やってみる!と宣言したことに対して、即座に投げつけるネガティブな意見。
「そんなこと何のためにやるの」「意味ないよ」「よく分かんないな」「なんか怪しいww」といった類の。

その言葉を書く前に、一度受け入れてみたんだろうか。
受け入れたあとで、やっぱり「よく分かんない」「意味がない」と感じたとしても、違う意見の人がいて当然だし、ネガティブなことをわざわざ書く理由はなんだろう。

発言は自由だから、相手の感情は考えずに何を言ってもいいのかしら?
年長者であれば何でも言っていいのか?
「経験したから言うけど」という枕詞をつけたら何を言っても許させるのか?本当に??

実は私が遠回りしていた頃も、いろんな意見をもらったことを覚えている。いま思うとそれも含めて全て今につながるんだけど、でも言われたその時はなかなか複雑な感情になるもんですよ。人間だもの。

もちろん誰かに言ってもらったことで救われることも多いんだけど、10回救われたとしても、1度の大きな破壊力は凄まじいものがある。

私が遠回りし始める前、何気なく、将来こんな風に生きていきたくて…と話した時に、かつて世界中に広く影響を与えた若きカナダのナチュラリストから
「まずは、あなたの新しいコミットメントにおめでとうと言わせて」
と言ってもらい、ものすごく安心したのを覚えている。彼女はその後で、いくつか彼女らしい具体的なアドバイスもくれたけど、最初の一言でもらった安心感を思い出すことで以来どれほど救われたか計り知れない。

私もああやって、誰かの新しい決意を応援できる人でいたい。

もしもそれが私にとっては「よく分かんない」ことだとしても、大切な友達や家族が考えて出した結論ならそれだけで応援する価値も理由も十分だ。

やってみなきゃたどり着かないことはたくさんあって、遠回りする価値はあるんだもの。

私的ブログ2.0は

10年以上前、それまで毎日毎日書いていたブログが一部の熱狂的な方々によって大炎上したことに気づいた朝、一瞬にして”ブログ熱”が冷めた私。

以来ブログからは遠ざかっていた。

その間に、世間ではイケハヤ氏が登場してブログ2.0時代になって、ブログを書くことが収入になるブログ飯なる概念が生まれた。
一方わたしは、気楽な海外生活から帰国して、今思えばかなりブラックな会社に入社し、人生初めてのジャケットとパンプスで会社員として働く枠のなかに自分の人生を納め続けていた。毎日「こんなもんなんだろう」という感覚を持っていた記憶がある。

まだ20代だったのに、もったいっちゃもったいない話。

時が経ちライターとして食べていけるようになった今、やりたいことが次から次へと現れる。毎日練習不足の状態で試合をしてるような気分なんだけど、試合をしないことには練習不足も補えないこの状況で、本を読んだり、映画を見たり、あと他になにする時間がほしい?と問いたら「ブログを書きたい」と感じた。

それは別に、今更ながらにブロガーになりたいとかブログ飯を目指すわけじゃなくて、日々ちっちゃなドラマを繰り広げるひとりの人間の軌跡を記したくなったから。

言ってみれば自分史的なライフログ。世間に遅れること10年余、やっと私もブログ道を歩もう。そう思ってこのワードプレスをつくった、というわけ。

でも、いきなりここから引越すことになってしまった。

今年から株式会社Two Doorsとして法人化したので、今後のことを考えて、法人ブログに一括することに。あと半月後くらいしたら以降はそちらで綴ることになる。

本っ当、我ながら計画性とか慎重さとかが大きく欠如してるような気もするんだけど、自然の流れに身を任せながら生きるってこういうことが起きる。

それもまた記録しておきたい、そんな気分だ。

(トップのモノクロ写真は数年前、キャンピングカー借りて3週間くらい九州を旅していた時の車内。毎日Mac開いて仕事して、ご飯つくって温泉寄って車で寝る、あぁどこに行ってもやってることは同じなんだと確信した旅でした)

こだわりオッケー、とらわれノーサンキュー

プラスチックフリーという言葉に慣れてきたのはこの1〜2年か。その前はなんて呼んでいただろう。たぶん私の中に同じ意味の単語はなく、ただ「プラってあんまり好きになれないなぁ」みたいな、感覚をただ言葉にしていたかもしれない。
このざっくりした主張は、良くも悪くも遺伝だと思う。

母は、世間一般におそらく「ナチュラリスト」に分類される。20年前の再婚を機に離島に移り、パートナーの理解のもと、広大な敷地で大好きな草花を愛でて、季節の野菜とお米で、食はほぼ自給に近い。

彼女のおかげで幼少期は自然食で育った。添加物入りのお菓子や加工食品、清涼飲料やインスタント食品は、恐らく中学に入るまでに数えるくらいしか食べたことがない。(この反動は後の海外生活でジャンク漬けになるんだけど)

まだ経済が強かった昭和の終わりで、神奈川県でもなかなかのレアケースだったと思うんだけど、母の選択には特別なロジックや確固とした理由はなく、あくまで感覚的に「こういうの(冷凍食とか)好きじゃないかな」って言うだけ。

その結果、「こだわるわりには囚われない」という感覚が確立した。

人によっては都合がいいだけに思うかもしれないし、そう見られたなら仕方ないんだけど、自分に適したレベルで現実と理想の決着がついたというか、こういう時ここまではOK、というある種の「マイ基準」がある感じ。

そういえば少し前に、ふだん自宅でしているプラスチックフリーなことを話す機会をいただいて、短い時間でみんなに何を話そうかと考えたとき、やはり伝えたいことは「こだわるけどとらわれない」マインドについてだった。

疲労困憊で自炊できないときはプラスチックトレイに乗ったお惣菜を買ったっていいんだし、恋人がくれた花束がセロファンで包まれてても素直に感謝すればいいし、暑い日に水筒の中身を飲みきってしまったらペットボトルの水を買ったって、いちいち自責の念にとらわれる必要はない。

大事なことは、現状の問題を根本から理解して、自分ができることを無理なく実行すること、そしてそれを続けること。その気概があれば、ちっちゃな自責の念なんぞは瞬時に遠のいていく。

たまにお世話になるプラスチック、いいじゃない。
嫌悪することなく、今までありがとうと言って距離を取るのがファーストステップで。

ちなみに、家庭内プラスチックフリーが話題になると必ずといっていいほど誰かに聞かれるのが 「ご飯を冷凍するときラップの代わりはどうしてる?」 って質問。

聞かれるたびに「あぁ、みんな、あの、使い捨てに対する途方もない気持ちを味わってるのねぇ」と共感するので、これを読んでくれてるどこかの同士のために、我が家の例を貼り付ける。

サラシとは、うすい綿の布で、数メートル単位で販売されてるもの。本来は、お祭りの時に体に巻いたりするものだけど、わたしはキッチンで使うことばっかりなので、使いやすいように30cmくらいに切断してから使う。

漂白されてることも多いし、パリッと洗濯糊がついてることもあるのでまずはそれらを洗い落とそう。

ご飯を冷凍するときは、濡らして絞って広げた上に冷凍したいご飯を乗せて包むだけ。ジップ袋に入れるか、バットに乗せてフリーザーに移し一気に凍らせるとおいしいまま保存できる。

解凍は、包んだご飯を冷蔵庫や常温に出しておく、もしくは、サラシのまま電子レンジに入れる、あとは蒸し器にそのまま入れるもアリです。(蒸すとよりふっくらおいしいご飯に戻る気がして時間がある時はこれが好き)

使ったサラシは洗って乾かせば何度も使えるし、古くなったら掃除用やウェスとして無駄なく使い切ることができる。一つの素材を使い切るって、それはそれは気分がいいのでこれはぜひ一度チャレンジしてみてほしい。

そう、私の基準のひとつは「シングルユース(使い捨て)をしない」こと。いきなりゼロにできなくても、できるところを探るのまた楽しいんだよね。

まずはできることから。やろう、みんなで。