こだわりオッケー、とらわれノーサンキュー

プラスチックフリーという言葉に慣れてきたのはこの1〜2年か。その前はなんて呼んでいただろう。たぶん私の中に同じ意味の単語はなく、ただ「プラってあんまり好きになれないなぁ」みたいな、感覚をただ言葉にしていたかもしれない。
このざっくりした主張は、良くも悪くも遺伝だと思う。

母は、世間一般におそらく「ナチュラリスト」に分類される。20年前の再婚を機に離島に移り、パートナーの理解のもと、広大な敷地で大好きな草花を愛でて、季節の野菜とお米で、食はほぼ自給に近い。

彼女のおかげで幼少期は自然食で育った。添加物入りのお菓子や加工食品、清涼飲料やインスタント食品は、恐らく中学に入るまでに数えるくらいしか食べたことがない。(この反動は後の海外生活でジャンク漬けになるんだけど)

まだ経済が強かった昭和の終わりで、神奈川県でもなかなかのレアケースだったと思うんだけど、母の選択には特別なロジックや確固とした理由はなく、あくまで感覚的に「こういうの(冷凍食とか)好きじゃないかな」って言うだけ。

その結果、「こだわるわりには囚われない」という感覚が確立した。

人によっては都合がいいだけに思うかもしれないし、そう見られたなら仕方ないんだけど、自分に適したレベルで現実と理想の決着がついたというか、こういう時ここまではOK、というある種の「マイ基準」がある感じ。

そういえば少し前に、ふだん自宅でしているプラスチックフリーなことを話す機会をいただいて、短い時間でみんなに何を話そうかと考えたとき、やはり伝えたいことは「こだわるけどとらわれない」マインドについてだった。

疲労困憊で自炊できないときはプラスチックトレイに乗ったお惣菜を買ったっていいんだし、恋人がくれた花束がセロファンで包まれてても素直に感謝すればいいし、暑い日に水筒の中身を飲みきってしまったらペットボトルの水を買ったって、いちいち自責の念にとらわれる必要はない。

大事なことは、現状の問題を根本から理解して、自分ができることを無理なく実行すること、そしてそれを続けること。その気概があれば、ちっちゃな自責の念なんぞは瞬時に遠のいていく。

たまにお世話になるプラスチック、いいじゃない。
嫌悪することなく、今までありがとうと言って距離を取るのがファーストステップで。

ちなみに、家庭内プラスチックフリーが話題になると必ずといっていいほど誰かに聞かれるのが 「ご飯を冷凍するときラップの代わりはどうしてる?」 って質問。

聞かれるたびに「あぁ、みんな、あの、使い捨てに対する途方もない気持ちを味わってるのねぇ」と共感するので、これを読んでくれてるどこかの同士のために、我が家の例を貼り付ける。

サラシとは、うすい綿の布で、数メートル単位で販売されてるもの。本来は、お祭りの時に体に巻いたりするものだけど、わたしはキッチンで使うことばっかりなので、使いやすいように30cmくらいに切断してから使う。

漂白されてることも多いし、パリッと洗濯糊がついてることもあるのでまずはそれらを洗い落とそう。

ご飯を冷凍するときは、濡らして絞って広げた上に冷凍したいご飯を乗せて包むだけ。ジップ袋に入れるか、バットに乗せてフリーザーに移し一気に凍らせるとおいしいまま保存できる。

解凍は、包んだご飯を冷蔵庫や常温に出しておく、もしくは、サラシのまま電子レンジに入れる、あとは蒸し器にそのまま入れるもアリです。(蒸すとよりふっくらおいしいご飯に戻る気がして時間がある時はこれが好き)

使ったサラシは洗って乾かせば何度も使えるし、古くなったら掃除用やウェスとして無駄なく使い切ることができる。一つの素材を使い切るって、それはそれは気分がいいのでこれはぜひ一度チャレンジしてみてほしい。

そう、私の基準のひとつは「シングルユース(使い捨て)をしない」こと。いきなりゼロにできなくても、できるところを探るのまた楽しいんだよね。

まずはできることから。やろう、みんなで。