家庭菜園のねぎが最強のライフハックだった話

アパート時代のプランターから始まり、ちっちゃな畑を何年か続けてきた自炊好きのひとりとして思うことは、(前のブログの続き文脈ですが)家庭菜園の最強っぷりが発揮されるのは、つくる野菜の選び方にある。

特に、「自炊の内容を変えたい」とか「自然食をもっと実践したい」とか「自家消費率をあげたい」とか、さらに本音を言えば「そうはいってみたものの忙しいし」「時間ないし」「大変になるのはムリ」という人にこそ、家庭菜園するなら選ぶべき野菜がある。

それは、薬味になる野菜

いわば、香味野菜。

これ、やってみたわたし個人としては、自炊の概念が変わるような、けっこうなライフハックだった。

だって家庭菜園といえば、トマト、きゅうり、じゃがいもの3大トップがあって(うちもどれも毎シーズンがんばってつくってるんだけど)それ以外は野菜づくりが趣味の郊外在住の諸先輩方がつくってるイメージがあったから。(我ながら若い頃は偏見の塊というか、視野の狭さがお恥ずかしいかぎり)

しかしそれなのに、なぜ香味野菜の自家栽培を推すかというと、世間における薬味の扱いがとても小さい気がするからだ。

なんなら、あってもなくても同じものくらいに扱われてる気もする(あれ、また偏見かな汗)

しかし本来の薬味は、書いて字のごとく、お薬のようにその役割に意味がある。

たとえば、「大根おろし」には消化促進があるから、揚げ物や秋刀魚など脂質が高いものとあわせると胃もたれを防ぐし、「ねぎ類」は魚や肉の臭みをとって、うまみを加える上に、疲労回復効果があるので元気になるし、「しょうが」は体を温めて胃腸の働きを助ける、「みょうが」は適度に体温調整をしてくれるから夏の暑いときに生えてくる、「大葉」は抗菌や抗酸化作用があるから海苔のかわりにおむすびに巻くのもいい、「パクチー」もビタミン豊富で抗酸化作用があるので食べたものの栄養吸収を助けてくれる、みたいバックストーリーは際限なくあるわけで。

一度、チューブや乾燥じゃない、本当の香味野菜を贅沢なほどたっぷり使ってみると、その違いは実感しやすいと思う。
とはいっても、日常の自炊のたびに香味野菜をたっぷり買って使うって、ある意味ホントに贅沢なこと。

だからこそ、お庭やベランダで家庭菜園はじめたい人には、薬味があるといいよー!って勧めることにした。

1〜3人家族ならたくさん植える必要はなくて、2人住まいの我が家も本当に少しずつだ。

しょうがやニンニクは2〜3個
ネギは7〜8本
あとはキッチンからすぐ届くプランターのひとつが万能ネギ、もうひとつ大葉、もうひとつパクチーとミント。これだけあると普段の料理にはそこそこ足りる。

料理が面倒なときも、買ってきた豆腐に刻んで乗せたら超立派な一品になるし、なんてことないパスタや焼いただけの厚揚げにパラパラ乗せたら、グンと見栄えが良くなり、おいしいお醤油と一緒にお客さんにも出せる。

むしろトマトを育てて、数回の”朝採れトマト”を味わって終わる夏よりも、買ってきたトマトにその日の気分でたっぷりの香味野菜をつかって料理する方が、ほぼ通年にわたって自家製の薬味が楽しめることになる。

もちろん野菜は、お店で少しのお金を払って買うこともできるし、そのほうが育てるよりも早いけど、自分の時間をかけて、自分で育てた野菜をたっぷり贅沢に味わう醍醐味は、自分で自分の人生を歩いてるっていう実感がこみ上げてくるものだ。

無農薬、無添加、オーガニックといった、誰かがつくった概念ではなく、「自分で自分の体を生かしてる」実感こそ、いつか大きな壁や挫折に向き合うときに、腹の底からグワーッと湧き上がるパワーに変わると信じている。

というか単純に、常に消費者でいるよりも、つくりてのマインドを持って生きるって楽しいこと。

さ、今日もなにか食べれるものをとってこよう。

やさいをつくって腹落ちしたことがある

仕事で農家さんを取材しながら、ときどき雑談でウチのちいさな家庭菜園のことを相談したりする。
プロに向かって素人の趣味の相談が許される立場に感謝しつつ、真面目に教えてくれる農家さんたちの懐の深さを実感するときだ。

で、だいたいその雑談の終わりは、プロ側から「家庭菜園、いいよね」という言葉で締まる。自然栽培や無農薬栽培の農家さんたちだからこそ、家庭菜園をしてる意味を褒めてくれる。ありがたいよね。

前に一度「家庭菜園がほんま最強やわ〜」と自虐的に笑って言ってくれた農家さんがいた。いやいやいやこんだけの自然栽培にコミットしてるあなたこそ最強です、と答えたけど、彼の真意の深さはわかる。
 
うん、ひかえめにいっても家庭菜園はやっぱり良い。

私も今より若い頃は、人はどうしてある一定以上の年齢になると野菜をつくりはじめるのかが不思議だった。
それもわりと世界中でその傾向があるので、人種を問わないところが本質なのか、と思ったりしてた。

結局そう言いながら私も20代の終わり頃からプランター栽培を始めるわけなんだけど、自分で続けてきてわかったことは、野菜の成長過程で何を見るかってことだった。

野菜はしゃべらないけど、でも確固たる意志をもって育つ。

それは、生きようとすること。
生きて次の世代(種子)をつくろうとすること。

そう、野菜は生き続けるために育つ、それだけだった。

でも野菜のひたむきな意志と成長を観察してると、人も自然の一部だったことを思い出す。

わたしたちも本能によって、生存目的の栄養分を求めるし、しみじみと味わえる味覚もそのためにある。

そんなことは明文化する必要もなくて、その気づきや境地にいるとただ心地良いから、だから多くの人は野菜を育てるんだと思う。
少なくても私はそう。

だから家庭菜園は、自分や身近な人の生命がこれからも続いてほしいという意志表明だ。

若干大げさなようだけど、でも私の中ではそんな概念に行き着いた。

そう気づいたら、もう種まきひとつがエンタメで、フェスみたいな高揚感で、あぁ 生きるとは素晴らしい、なんて思いが、文字通り足元からこみ上げてくる。

収穫して食べる満足感は喜びの極みとなり、ネイルに土が入ることなんて一切気にならなくなった。むしろ長いネイルをやめた。

そして季節を一周、二周しながら慣れてくると、初めの頃の興奮は収まり、もっとじんわりと感じる喜びに変わる。決して慣れてきたり惰性ではなくて、言うなれば滋味深く感謝できるようになる感じ。

10年近く経ったらプランター3個の家庭菜園から、5m幅の畝が10畝ちょっと取れる畑になり、たくさんの野菜という命のリレーに伴走したことで私自身どれほどの考察をもらっただろう。

慌ただしい資本主義社会に生きる今、私の「本質を見る目」は情けないほどあっという間にすぐ曇るんだけど、それを戻してくれるのが自然の力であり、家庭菜園が気づかせてくれることだと思う。

大げさに聞こえたらそれまでなんだけど、でも私はそう感じてる。

この喜びをこうしてシェアできることもまた、家庭菜園がくれた喜びなんだよね。